長編時代小説 算学奇人伝 永井義男 祥伝社文庫 冒頭の文章: 博打(ばくち)でないと言われれば、確かにそうかもしれない。 はずれるたびに賞金が倍になり、つまり、はずれればはずれるほど金がもうか るというのだから。運が悪いほうが得だということになる。 まず、通常の博打(ばくち)では有り得ないことだった。 そのため、日ごろから賭場で金をすられっぱなしの男たちが、「俺ぐらいつい てない人間はないのだから」と、妙な自信を持って詰めかけているという。 下男の治助(じすけ)はてっきり叱られると覚悟し、恐る恐る話し始めたのだが、主人の 吉井長七(よしいちょうしち)は叱りつけるどころか、ひとかたならぬ興味を抱いたらしい。 「面白いな。うむ、なかなか面白い。もう一度詳しく話してみろ」 そう言いながら、座敷から縁側に身を乗り出してきた。 長七は年齢は二十八歳だが、どことなく老成(ろうせい)した雰囲気をただよわせている。 顔はやや角張っていたが色が白く、縞縮緬(しまちりめん)の小袖に本博多(ほんはかた)の帯 という外見は、いかにも富裕な商家の道楽息子を思わせた。 だが、着こなしが少しも粋でないし、しかも道楽息子にしては風貌が茫洋としていた。 かといって商家の若旦那にしては、その日の輝きに鋭利なところがあり、 どこかちぐはぐな印象が抜けきれない。 その彼が、まさに生き生きとしていた。 南本所石原町(みなみほんじょいしわらちょう)の町屋である。(つづく)